日記、サイト運営に関する諸々及びPBWゲームへの呟きをつれづれなるままに。
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※mixi日記の加筆版です。
Twitterでは呟いていたのでご存知の方もおられるかもしれませんが。
八月十二日の午前二時前後でしょうか、犬井の愛犬、宝良が永眠いたしました。
我が家に来て、14年と5ヶ月でした。
原因は、もともと心臓が弱って来ていたところに暑さが続き、そのくせ散歩には行きたがって、その関係で熱中症になったのがきっかけで呼吸困難を起こしたから……でしょうか。
夕方の散歩、その日は妙に遠出をしたがり、いつもなら絶対に通らないような道を通って、久しぶりに工場(こうば、祖父が昔仕事場に使っていた粗末な建物のある場所で、家から結構遠い)まで行ったんだそうです。それで結局ばてて、呼吸がおかしくなり、心臓に負担がかかって命を縮めたんですが、奴の最後に歩いたルートが、今まで通った散歩道の総集編? とでもいうべきもので、自分の時間の残りに漠然と気づいていて、最後に見に行こうと思ったのかなあ、と母と話しました。
工場まで辿り着いた辺りで体力の消耗が激しく、自力では結局帰宅できなかったそうです。連れ帰られてからも、今までにしたこともないような異常な呼吸で、苦しすぎて横たわることすら出来なかったらしく、おかしいと危機感を覚えた父が連絡をくれました。
父親から宝良が熱中症で死にそうだと連絡をもらったのが午後六時半、弟に車を出してもらって田舎に直行し、たどり着いたのが九時半ごろ。その頃にはすでに、休むことも出来ないほど呼吸が荒く、どうにか持ち直してくれるよう祈りつつも覚悟はしていました。 呼吸をしても酸素が心臓まで行かないのか? 苦しくて仕方ないようで横たわれず、前足で上体を起こして気道を確保した姿勢で、舌がもう完全に外へ出てしまっていました。涎も異常な量で、水も飲めなかったみたいです。
体温を下げるためにタオルでくるんだ氷でおなかを冷やしたり、すくった水で舌を湿らせてやったりしつつ、うとうとしながら様子を見ていたら、午前二時前、ゼェゼェという荒い呼吸が不意に弱まり、私も唐突に覚醒しました。力尽きたかのような印象で、上体が横倒しになったので抱き上げたら、ヒュッ、という音とともに呼吸が止まりました。そのあと何度か末期の痙攣と呼気があり、それからゆっくり心音が弱まって、私が名前を呼ぶ中、私の腕の中で息を引き取りました。
あっという間の最期でした。
今もこの日記を書きながら横たわる宝良を見ていますが、何かの拍子に起き上がるんじゃないかと思えて仕方ありません。このまま、朝を迎えようと思います。(※当日、その時に書いていた文章です)
次の日、一睡もしないまま役場へ行き、火葬の手配をして、その日の午前11時に荼毘に付していただきました。本当は、もう少し置いておいてゆっくりお別れしたかったんですが、何せこの気温ですので、腐敗が始まる前に、可愛いままの姿で送り出してやろうと思ったのでした。
祖父のときも思いましたけど、生き物って焼くとあんなにちょっとになっちゃうんですね。収骨をしない飼い主さんもおられるそうなんですが、私は、何か彼女を悼むよすががほしかったのでいただいて帰りました。
現在、お骨は私の家にいます。
友人たちが、お別れがしたいといってくれたので。
それはもう、 めちゃくちゃ泣きました。
宝良の心臓の音が聞こえなくなった時、ひとりで泣いて(そのとき家族は二階で休んでいました)、そこからはしばらく自失していて冷静というかぼんやりしていたんですが、次の日その茫然自失状態が解けたのか哀しみがこみ上げてきまして。泣くに泣けなくて息が詰まったみたいになっていたら、母がぎゅっとしてくれて、堰を切ったみたいに涙が溢れました。
あとは、最後のお別れのとき。火葬場で、動物用の台に宝良を乗せて、花とおやつを供えて、お別れするときに、やっぱり呼吸が止まるくらい泣きました。正直、成人してからここまで泣いたのって初めてのことじゃないかと思います。
今も宝良の最後を脳内で再生すると涙ぐみますし、喪失感も大きいですが、しかし実を言うと後悔はあまりないのです。
14年と5ヶ月、私も家族も全力で宝良を愛しましたし、宝良も好きなように、楽しく一生懸命に生きてくれました。このお別れの悲嘆の前に、驚くほどたくさんの喜びがあり、楽しい苦労がありました。
何より、私は宝良の最後のひと呼吸、心臓の最後の一打ちまでいっしょにいることが出来ました。それは飼い主としての義務であり責任であり、そして権利でもあるのではないかと思います。私は、愛犬の最期を看取れたことに安堵と充足を覚えています。私の腕は、愛犬の最後の呼吸を受け止められた幸せな腕です。
予想よりずいぶん早いお別れで、もっともっといっしょにいたかったという思いは尽きませんが、それでも、何よりもまず宝良に感謝を。
うちのこになってくれてありがとう。楽しい苦労をありがとう。全力で生きてくれてありがとう。私に愛させてくれてありがとう。 最後は少ししんどかったけど、もう楽になれたかな。今は次の命の順番を待っているのかな。それとも、四十九日の間は、お世話になった人たちのところや、犬友達のところに会いに行っているのかな。次の宝良にいつかどこかで会えるかな。会えるといいな。
思い出しても、文章にしても、言葉にしても哀しいです。
それでも、この痛み、悼みも贈り物。私が彼女を愛したからこそ。泣いても泣いても涙が尽きないこの哀しみは、結局のところ私たちが幸せだったからこそ。だからこそこの別れはこんなに苦しいのだと思えば、感謝以外の言葉は出て来ないですね。
痛いのも、哀しいのも、苦しいのも、喪失感も受け止めて、ちくちく心臓を刺すこのせつない幸いを私は甘受します。
そして、素敵な余生を田舎で過ごさせてくれた両親、可愛がってくださった近所の方々、仲良くしてくれたわんこさんたち、私と宝良の関係を貴んでくれたオンオフの友人たち。最期の時に間に私を間に合わせてくれた、運命とか巡り会わせとかそういうもののすべて。 直接的にでも間接的にでも、宝良を愛してくれたすべての人に感謝を。
宝良はとても幸せな犬でした。
あとは、もしも願えるなら、どうか、記憶の片隅にでも、宝良という食いしん坊で怖がりで、マイペースでおっちょこちょいな雑種犬がいたことを覚えていてやってください。 それだけで、私たちは幸せです。
Twitterでは呟いていたのでご存知の方もおられるかもしれませんが。
八月十二日の午前二時前後でしょうか、犬井の愛犬、宝良が永眠いたしました。
我が家に来て、14年と5ヶ月でした。
原因は、もともと心臓が弱って来ていたところに暑さが続き、そのくせ散歩には行きたがって、その関係で熱中症になったのがきっかけで呼吸困難を起こしたから……でしょうか。
夕方の散歩、その日は妙に遠出をしたがり、いつもなら絶対に通らないような道を通って、久しぶりに工場(こうば、祖父が昔仕事場に使っていた粗末な建物のある場所で、家から結構遠い)まで行ったんだそうです。それで結局ばてて、呼吸がおかしくなり、心臓に負担がかかって命を縮めたんですが、奴の最後に歩いたルートが、今まで通った散歩道の総集編? とでもいうべきもので、自分の時間の残りに漠然と気づいていて、最後に見に行こうと思ったのかなあ、と母と話しました。
工場まで辿り着いた辺りで体力の消耗が激しく、自力では結局帰宅できなかったそうです。連れ帰られてからも、今までにしたこともないような異常な呼吸で、苦しすぎて横たわることすら出来なかったらしく、おかしいと危機感を覚えた父が連絡をくれました。
父親から宝良が熱中症で死にそうだと連絡をもらったのが午後六時半、弟に車を出してもらって田舎に直行し、たどり着いたのが九時半ごろ。その頃にはすでに、休むことも出来ないほど呼吸が荒く、どうにか持ち直してくれるよう祈りつつも覚悟はしていました。 呼吸をしても酸素が心臓まで行かないのか? 苦しくて仕方ないようで横たわれず、前足で上体を起こして気道を確保した姿勢で、舌がもう完全に外へ出てしまっていました。涎も異常な量で、水も飲めなかったみたいです。
体温を下げるためにタオルでくるんだ氷でおなかを冷やしたり、すくった水で舌を湿らせてやったりしつつ、うとうとしながら様子を見ていたら、午前二時前、ゼェゼェという荒い呼吸が不意に弱まり、私も唐突に覚醒しました。力尽きたかのような印象で、上体が横倒しになったので抱き上げたら、ヒュッ、という音とともに呼吸が止まりました。そのあと何度か末期の痙攣と呼気があり、それからゆっくり心音が弱まって、私が名前を呼ぶ中、私の腕の中で息を引き取りました。
あっという間の最期でした。
今もこの日記を書きながら横たわる宝良を見ていますが、何かの拍子に起き上がるんじゃないかと思えて仕方ありません。このまま、朝を迎えようと思います。(※当日、その時に書いていた文章です)
次の日、一睡もしないまま役場へ行き、火葬の手配をして、その日の午前11時に荼毘に付していただきました。本当は、もう少し置いておいてゆっくりお別れしたかったんですが、何せこの気温ですので、腐敗が始まる前に、可愛いままの姿で送り出してやろうと思ったのでした。
祖父のときも思いましたけど、生き物って焼くとあんなにちょっとになっちゃうんですね。収骨をしない飼い主さんもおられるそうなんですが、私は、何か彼女を悼むよすががほしかったのでいただいて帰りました。
現在、お骨は私の家にいます。
友人たちが、お別れがしたいといってくれたので。
それはもう、 めちゃくちゃ泣きました。
宝良の心臓の音が聞こえなくなった時、ひとりで泣いて(そのとき家族は二階で休んでいました)、そこからはしばらく自失していて冷静というかぼんやりしていたんですが、次の日その茫然自失状態が解けたのか哀しみがこみ上げてきまして。泣くに泣けなくて息が詰まったみたいになっていたら、母がぎゅっとしてくれて、堰を切ったみたいに涙が溢れました。
あとは、最後のお別れのとき。火葬場で、動物用の台に宝良を乗せて、花とおやつを供えて、お別れするときに、やっぱり呼吸が止まるくらい泣きました。正直、成人してからここまで泣いたのって初めてのことじゃないかと思います。
今も宝良の最後を脳内で再生すると涙ぐみますし、喪失感も大きいですが、しかし実を言うと後悔はあまりないのです。
14年と5ヶ月、私も家族も全力で宝良を愛しましたし、宝良も好きなように、楽しく一生懸命に生きてくれました。このお別れの悲嘆の前に、驚くほどたくさんの喜びがあり、楽しい苦労がありました。
何より、私は宝良の最後のひと呼吸、心臓の最後の一打ちまでいっしょにいることが出来ました。それは飼い主としての義務であり責任であり、そして権利でもあるのではないかと思います。私は、愛犬の最期を看取れたことに安堵と充足を覚えています。私の腕は、愛犬の最後の呼吸を受け止められた幸せな腕です。
予想よりずいぶん早いお別れで、もっともっといっしょにいたかったという思いは尽きませんが、それでも、何よりもまず宝良に感謝を。
うちのこになってくれてありがとう。楽しい苦労をありがとう。全力で生きてくれてありがとう。私に愛させてくれてありがとう。 最後は少ししんどかったけど、もう楽になれたかな。今は次の命の順番を待っているのかな。それとも、四十九日の間は、お世話になった人たちのところや、犬友達のところに会いに行っているのかな。次の宝良にいつかどこかで会えるかな。会えるといいな。
思い出しても、文章にしても、言葉にしても哀しいです。
それでも、この痛み、悼みも贈り物。私が彼女を愛したからこそ。泣いても泣いても涙が尽きないこの哀しみは、結局のところ私たちが幸せだったからこそ。だからこそこの別れはこんなに苦しいのだと思えば、感謝以外の言葉は出て来ないですね。
痛いのも、哀しいのも、苦しいのも、喪失感も受け止めて、ちくちく心臓を刺すこのせつない幸いを私は甘受します。
そして、素敵な余生を田舎で過ごさせてくれた両親、可愛がってくださった近所の方々、仲良くしてくれたわんこさんたち、私と宝良の関係を貴んでくれたオンオフの友人たち。最期の時に間に私を間に合わせてくれた、運命とか巡り会わせとかそういうもののすべて。 直接的にでも間接的にでも、宝良を愛してくれたすべての人に感謝を。
宝良はとても幸せな犬でした。
あとは、もしも願えるなら、どうか、記憶の片隅にでも、宝良という食いしん坊で怖がりで、マイペースでおっちょこちょいな雑種犬がいたことを覚えていてやってください。 それだけで、私たちは幸せです。
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犬井ハク
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性別:
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職業:
似非教員
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創作全般
自己紹介:
血まみれバトルFTと手作り全般、マイナー音楽と犬と本を愛する頑固者。どんなときも、どこにいてもイヌハク節全開、いつでも一直線に全力疾走(急には曲がれない)。
偏屈ですが人間は好きです。おだてられたり褒められたりするとテンションと作業速度がアップします。よければ声をかけてやってください。
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